2009年07月01日

一般にインフレや景気と賃金がスライドする労働者

一般にインフレや景気と賃金がスライドする労働者(会社員など)に比べ、賃金硬直性の強い労働者(公務員など)は、好景気時は相対的に貧しくなる。一方、景気の悪い時期においては、公務員などは会社員などと比べると賃金が下がりづらい為、相対的に豊かになる。

一般的に、景気が良くなっているときは企業は人を増やそうとして企業などに雇われる雇用者は増加する。一方、景気が悪くなっているときは企業はコスト削減のために人件費を減らそうとして雇用を抑制、または雇用者を解雇する。なお、雇用関係の指標は景気に対して遅行する場合が多い。
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不況になると、企業の資金需要は減退し、貸出金の増加テンポが鈍くなり、やがて減少に転じる。不景気が長期化すると不良債権が増えて貸倒引当金を積み増すため、利益が圧迫される。好景気になると、企業は、金融機関から資金を借りてでも資金調達し、生産設備等の設備投資にあるいは運転資金に充てようとするため、資金需要が旺盛となり、金融機関の貸出金残高も増加する。やがて業績不振の企業が立ち直ると共に不良債権が減り引当金が必要なくなり、これを取り崩すため、利益が増大する。

同様に、個人についても好況が続くと、将来的にも雇用不安が少なくなり、賃金が確保できる予想が成り立ち、地価や住宅価格の上昇が予想されることから、今のうちに住宅ローンを借りてでも、住宅を手に入れようとする人が増えるので、住宅ローンの取り扱いがふえて、金融機関のローン残高も増える。特に、景気の上昇が鮮明になり、ローン金利の上昇が見込まれるときには駆け込み的に申し込みが増える。個人についても、住宅ローン金利の変動については敏感になっている。

2009年06月13日

セルシウス度(セルシウスど、記号:℃/°C)は

セルシウス度(セルシウスど、記号:℃/°C)は、温度(セルシウス温度)の単位である。欧米では考案者の名前からセルシウス度と呼ばれており、日本などではセルシウスを中国語で書いた摂爾修から摂氏温度(せっしおんど、せしおんど)ともいう。

現在の定義は、「ケルビン(K)で表した熱力学温度の値から273.15を減じたもの」である。元々の定義は水の凝固点を0度、沸点を100度とするものであった

例えばセルシウス度による温度は、日本語では「15℃」または「摂氏15度」という。「C」または「摂氏」を省略しない書き方が正式であるが、日常生活においては単に「15度」と表現することも多く、同様に「度」という表現を用いるファーレンハイト度(華氏温度)や角度と混同される恐れがある。英語では"fifteen degrees Celsius" と読み、"15 deg C"と略記する。日本語の場合にも科学の学術の発音では上記誤解を避けるため「ドシー」と呼ぶこともある。

セルシウス度はスウェーデン人のアンデルス・セルシウスが1742年に考案したものに基づいている。当初は1気圧下における水の凝固点を100℃、沸点を0℃として、その間を100等分し、低温領域、高温領域に伸ばしていた。しかしその後、定義は凝固点を0℃、沸点を100℃とする現在の方式に改められた。これは、カール・フォン・リンネか、セルシウスの用いていた殆どの温度計の製作者であるDaniel Ekströmの換言によるものかもしれないといわれている。

水の沸点と融点の間に100の目盛があることから、この体系のもともとの名称はcentigrade(「百分度」の意)であった[要出典]。しかし1948年の第9回国際度量衡総会にて、名称が正式にセルシウスへと変更になった。これには、セルシウス自身の認知のためと、SI接頭辞であるセンチ (centi) との衝突からくる混乱(centigradeがgradeという単位の100分の1と勘違いされる)を避けるという目的があった。
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その後の物理的な計測方法の進歩と熱力学温度の採用により、現在の定義は「ケルビンで表した熱力学温度の値から273.15を減じたもの」となっている。つまり、水の三重点を0.01℃とし、水の三重点と絶対零度の温度差の273.16分の1を1℃としている。「273.16分の1」という数字は、セルシウス度における1度の温度差をそのままケルビンの1度の温度差として使用するためのものである。すなわち、セルシウス度とケルビンの目盛の幅(1度の温度差)は等しい。なお、この定義により、水の沸点はちょうど100℃から99.974℃に変更された。

セルシウス度は日常の様々なところで用いられているが、英国やアイルランドの放送メディアの中にはセンチグレードと呼ぶところも多い。アメリカのメディアだけは依然単独でファーレンハイト度を用いている。

2009年06月08日

精神医学者としてのユングと精神医学

カール・グスタフ・ユングは、フロイト(1856?1939)をはじめとする精神分析学の心理療法家たちとは異なり、当時いまだ発展途上にあった精神医学の研究者であった。精神医学の課題は、人間の精神つまり心(魂)に起こる、変調あるいは病を研究し、身体医学において成功したように、病よりの治療法を確立することが大きな目標としてあった。

しかし、精神の病とは一体何なのか。古代ギリシアにおいては、てんかんは神のもたらす神聖な病だと考えられていたが、近代ヨーロッパはそのような見方を否定した。とはいえ、それでは「てんかん」とは何で、どのような原因で起こるのか、理解していた訳ではない。広義に「狂気」とは何なのかが、定かでなかったと言える。

現象的あるいは症状的に精神の障害を記述し、分類を試みたのはクルト・シュナイダー(1887?1967)であり、シュナイダーの方法は、今日でもアメリカ精神医学会(APA)が定める DSM において症状記述として継承されている。
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シュナイダーより半世紀前に、精神の障害・異常あるいは病の系統分類で画期をもたらしたのは、ドイツの精神医学者であるエミール・クレペリン(1856?1926)であり、彼は19世紀末、「早発性痴呆 (dementia praecox,1893年)」の名で精神分裂病(統合失調症)を定義し、躁鬱病や神経症とは根本的に何かが異なることを明らかにした。

スイスのオイゲン・ブロイラー(1857?1939)は、クレペリンの疾病概念をほぼ継承しつつ、精神が有機的な要素の連合として機能しており、この連合が何かの理由で乖離・分裂するとき、早発性痴呆の症状が生じるとし、早発性痴呆は必ずしも、「早発性」ではないことも考慮した上で、これを「精神分裂病群 (Schizophrenien)」と名づけた(1911年)。

ブロイラーは分裂病が、単一の精神疾患ではなく、機制の異なる複数の疾患の総称(症候群)である可能性を主張しており、複数形で表現した。後に、単数形で Schizophrenie と書かれるようになる。現代の知見においても、統合失調症(精神分裂病)は単一の精神疾患ではなく、複数の疾患か、更にそれらが輻輳したものであるとの考えが有力である。

2009年04月25日

歴代の王達は遠征の後

歴代の王達は遠征の後に、国家神であるアメンに戦勝を謝するため、テーベにあるアメン神殿に多数の寄進を行うのが慣例となっていた。やがてアメン神殿はエジプトにおいて比類無い有力勢力となり、アメン神官団の動向は時として王位すら左右するようになった。第18王朝半ば頃になるとこうした神殿勢力の強大化に懸念を抱いた王達は、人事面における介入や他の神殿とのバランスをとる政策を中心として、アメン神官団の勢力をそぎ落としにかかった。こうして比較的アメン神官団を統御することが可能となったアメンヘテプ3世の時代には、圧倒的な王権を背景に数多くの巨大建築が残された。

アメンヘテプ3世に続くアメンヘテプ4世は更に進んでアメン信仰を排し、アテン神を唯一信仰するという新たな宗教改革(アマルナ革命)に乗り出した。王はアテン信仰を盛り上げるべく、王名をアクエンアテンと変更し、首都を新たにアケトアテンへと遷した。新しく筆記語として当時の口語(新エジプト語)が採用された。そしてアマルナ美術と呼ばれる新たな美術様式が生み出され、アテン神の図像表現も定まった。しかしアテン信仰は王とその側近以外にはほとんど広まらず、アクエンアテンの死後再びアメン信仰が国家祭儀の中心となった。

アクエンアテンの後は王位継承が混乱し、軍人出身の王が続いた後第18王朝最後の王ホルエムヘブから後継者に指名された宰相ラムセス1世が即位して第19王朝が始まった。第19王朝においても新王国の繁栄は受け継がれ、セティ1世、そしてラムセス2世はその威信を示す巨大建造物を多数残している。特にラムセス2世は古代エジプト最大の王とも言われ、60年を超える彼の治世はエジプトが最も繁栄した時代と解される。

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その後興った第20王朝の王ラムセス3世の治世を最後に、新王国の王権は急速に衰退し始め、逆に勢力をのばしたテーベのアメン神殿が事実上の国家を樹立して上エジプトに支配を広げ、エジプトの統一は再び失われた。下エジプトではスメンデスと言う名の男が新たに権力を握ってラムセス11世と並び立ち、やがて新たに第21王朝を開くことになる。

新王国時代には相次ぐ対外遠征によって齎された膨大な戦利品がエジプトの社会に大きな影響を与えた。既に中王国時代のヌビアへの遠征によってエジプトに大量の金が齎されるなどしてはいたが、新王国時代になると、相次ぐ軍事的成功によって戦利品の質、量ともに中王国時代とは格段の差が生じた。この戦利品は王からの寄進という形をとって神殿へと流れ込み、エジプト各地の神殿勢力、取り分けテーベのアメン神殿はその勢力を飛躍的に拡大した。また戦争中に捕らえられた外国人は捕虜奴隷としてエジプトに連れてこられ、神殿などへ寄進された他、各種の労働に携わった。

2009年04月07日

スピリチュアル

スピリチュアル (spiritual) とは、 material (「物質的な」あるいは「肉体的な、官能的な」)に対し、「霊的な、精神的な、神聖な」と言う意味で、形容詞形のほか「霊的なこと(もの)」と言う意味の名詞形でも使用される。霊性の意味を表すスピリチュアリティも参照せよ。

スピリチュアリティの短縮形として扱われる。元々は霊性としての意味合いで使われていたが、近年(2000年前後)になり自己啓発や精神世界といった、心のあり方を扱う分野で広義に亘り使用されている。

最近(2005年前後)テレビ番組では、霊を呼び出したり、守護霊の話をするような意味に使われるようになった。その影響からか、テレビ以外でもこうした使われ方がされるようになってきているが、もともと以下に示すように実際にスピリチュアルとされる分野は非常に多岐にわたるものである。

しばしばスピリチュアルと関連付けられる分野 [編集]
音楽、ヨーガ、マクロビオティック、ボディーワーク(en)、マッサージ、LOHAS、サイキック、癒し、気功、波動、代替医療、オーラ、レイキ、スピリチュアルアート、占星術、魔法、ドルフィン・スイム、風水、野口整体、ハワイアンカルチャー、アボリジニ、コーチング、NLP、ユング心理学、トランスパーソナル心理学、ビジョン心理学、パワーストーン、オーラソーマ、ヒプノセラピー、ホメオパシー、フラワーエッセンス、ネイティブスピリット、ヒーラー、チャネリング、アロマテラピー、ヒーリング、パワースポット(聖地)、アイヌ、沖縄の伝統民間信仰、神道、瞑想、禅など。

関連項目 [編集]
交霊術
霊感

スピリチュアル(音楽) [編集]
「黒人霊歌」「白人霊歌」と呼ばれてきたものの総称(霊歌、スピリチュアルズ)である。「黒人霊歌」のことを「ニグロ・スピリチュアル」という言い方がある。奴隷としてアフリカから連れてこられたアフリカ系アメリカ人にキリスト教が広まり、賛美歌とアフリカ独特の音楽的感性が融合したものである。スピリチュアルを賛美歌に含めて考える考えと、賛美歌としては取り扱わない考えとがある。

著名なスピリチュアル・ミュージック [編集]
スウィング・ロー、スウィート・チャリオット (Swing Low, Sweet Chariot)
行け、モーセ (Go Down Moses)
漕げよマイケル(Michael)
アメイジング・グレイス (Amazing Grace)
深き河 (Deep river)
聖者の行進 (When the Saints Go Marching In)
ジェリコの戦い (Joshua fit the battle of Jericho)
鐘の音よ安らかに (Tone the Bell Easy)

ダーラン サフィ サウンド サイド バング レウイ ルンペン レバノン ブラック シード バレー ソフトダ ロッシュ メロン シャーリ おおばなさ クリーン きゅうせき ケマン カイドウ くしびき ハーフ フェア ビリティ ユーエ モッツ ルヒル ヒューズ ライダー 幸福 リンクス マチン ユッケ スリラー YELLOW テレカ ゲート セッション 風の足跡 オンシ 艶姿 検索ジム バースト テレフ ハック プライ ダバード ワクシニア オーバ モンテ

2009年03月23日

日本以外の三六軌間

1,067mmの軌間を採用する国・地域の例は次の通り。
メイン フェムト ブレンダー オーダ ジャッキ プロデ ハンド ヨーグルト ひょう リゾット しゅうばつ メーター ダンク デマンド サイトゲ バオアン アコウ カーレ アオイル カーネル モルヒ スター メトロ アシカ センチュリー カルーセル サラダ キャメ バック レイヤー 笑い話 風の子 リットル オジギソ りゅうら 宝石箱 ダンス ウンディー リベット アウテ ビー ジャケブル イバナ バタフラ いもがゆ トラックク レース バズーカ コリドー ブレーク

アジア
台湾(台湾高速鉄道と台北捷運を除く)
香港(市街電車のみ)
フィリピン
インドネシア
樺太
オセアニア
オーストラリアのクイーンズランド州、西オーストラリア州、南オーストラリア州、タスマニア州
ニュージーランド
アフリカ
コンゴ民主共和国、ザンビア、モザンビーク以南の南部アフリカとタンザン鉄道 - ただし南アフリカ共和国ではメートル法の採用時に軌間を1,065mmと定めているが、実質は同じである。
スーダン
ナイジェリア
ガーナ
ラテンアメリカ
コスタリカ
エクアドル
ハイチ
アメリカ合衆国では、サンフランシスコのケーブルカーがこの軌間で現存している他、1963年まで存在したロサンゼルスの市街電車や、1950年まで運行されていたデンバーの市街電車の軌間が1,067mmであった。

ノルウェーやスウェーデンでは19世紀に1,067mm軌間の鉄道網が作られたが、後に改軌された。カナダのニューファンドランド島には1988年まで1067mm軌間の鉄道が存在した。

馬車軌間
この他の日本の狭軌線には1372mm軌間がある。その出自から馬車軌間とも呼ばれ、標準軌・旧国鉄採用軌間とも違うことや使用線区の特殊性から偏軌・変則軌道とも言われる。また、東京とその周辺では一時広く採用されたのに対し、日本国内のみならず世界的に見ても、それ以外での使用例がきわめて少ないことから、東京ゲージの呼称を提唱している鉄道史家もいる。かつてスコットランドの一部で使われたので英語ではScotch Gauge(en:Wikipedia:Scotch Gauge)と呼ばれる。 これは東京馬車鉄道(この時代の軌間は767mmあるいは737mmとされる)の路線網を引き継いだ東京電気鉄道が東京初の電車を走らせ始めたときに用いられた規格で、その路線は後に東京市電気局を経て都電などに引き継がれた。

2008年現在、これを採用している鉄道会社・路線には次のようなものがある。

京王電鉄(井の頭線を除く)
東京急行電鉄(東急世田谷線のみ)
東京都交通局(都営新宿線および都電荒川線のみ)(新宿線は京王線との直通運転をする際に路線の幅を京王線に合わせるため馬車軌にした)
函館市交通局
高速鉄道としては京王、都営のみ採用している。これらは都電とのつながり(直通、車両の流用)から採用された。特に京王電鉄については、その創業期に東京市電への乗り入れを計画したことや、軌道法により敷設を始めたことなどを1,372mmを採用し、地方鉄道として開通させた旧玉南電気鉄道区間(府中駅?東八王子駅間)では京王電軌に合併後1,067mmから1,372mmへの改軌もしたが、都電乗り入れは実現しなかった。1945年、京王が軌道から地方鉄道法に変更してからも馬車軌をあたため続けた。後に都営新宿線を建設する際、都が相互乗り入れを予定している京王帝都に対して1,435mmへの改軌を迫ったが、営業運転を継続しながら改軌に成功した1950年代の京成に比べ、1970年代の京王線のダイヤと車両数では営業を続けながらの改軌工事が不可能であったことなどから京王帝都の言い分が関係各所に受け入れられ、都営新宿線の方が京王に合わせて1,372mm軌間を採用したという経緯がある。

過去の例としては以下の鉄道会社・路線がある。

京浜急行電鉄は、その前身である京浜電気鉄道時代の一時期(1904年?1933年)に、1372mm軌間へと改軌し東京市電に乗り入れていた。
京成電鉄では都営地下鉄1号線(現浅草線)乗り入れ前の1959年に標準軌に改修するまで採用していた。王子電気軌道(現在の都電荒川線)への乗り入れを構想していたためである。
京成の子会社の新京成電鉄は、1947年に1,067mmで開業した後、1953年、京成に合わせて1372mmに改軌し、さらに京成と同じく1959年には標準軌に改軌している。
現在の東急世田谷線の本線に当たり、1969年に廃止された東急玉川線も同じ軌間であった。
横浜市交通局(横浜市電)、1972年廃止。
西武鉄道(旧)大宮線。東京市電の払い下げ車を使用していた。並行して省線川越線が開通したため1941年廃止。

特殊狭軌 [編集]
日本で1,067mm未満の軌間を採用している路線で、現存するものには次のものがある。

普通鉄道線
近鉄内部・八王子線 (762mm)
三岐鉄道北勢線(762mm、2003年4月1日近畿日本鉄道から移管)
黒部峡谷鉄道本線 (762mm)
工事用軌道・森林軌道
安房森林軌道 (762mm)
国土交通省立山砂防工事専用軌道 (610mm)
かつて存在した路線は非常に多く、第二次世界大戦中に不要不急路線として廃止されたもの、1960年代前後に道路交通の整備により役目を終えて廃止されたものがあった。なお、国有鉄道に存在した特殊狭軌線に関しては国鉄の特殊狭軌線を参照のこと。

旧日本陸軍鉄道連隊、後の新京成電鉄(762mm、1946年に1067mm、1953年に1372mm、1959年に1435mm(標準軌)に改軌)
根室拓殖鉄道(762mm、1959年廃止)
歌登町営軌道(762mm、1971年廃止)
花巻電鉄(762mm、1969年廃止)
磐梯急行電鉄(762mm、1969年廃止)
湘南軌道(762mm、1937年廃止)
九十九里鉄道(762mm、1961年廃止)
越後交通栃尾線(762mm、1975年廃止)
草津軽便鉄道(後の草軽電気鉄道)(762mm、1961年廃止)
尾小屋鉄道(762mm、1977年廃止)
静岡鉄道駿遠線(762mm、1970年廃止)
遠州鉄道奥山線(762mm、1964年廃止)
三重交通松阪線(762mm、1964年廃止)
三重電気鉄道湯の山線(762mm、1964年に1435mm(標準軌)に改軌)
安濃鉄道(762mm、1972年廃止)
中勢鉄道(大日本軌道伊勢支社、762mm、1943年廃止)
赤穂鉄道(762mm、1951年廃止)
西大寺鉄道(914mm、1962年廃止)
下津井電鉄(762mm、1990年廃止)
井笠鉄道(762mm、1971年廃止)
鞆鉄道(762mm、1954年廃止)
日本国内の鉱山では610mm軌間の物が多い。坑内では508mmを採用していた所もあるようである。 工事現場で使用された手押しトロッコの軌間には主に610mmと508mmであり、機関車を用いた 工事用軌道は610mmと762mmが多い。

日本における狭軌の保存鉄道 [編集]
千葉県成田市にある成田ゆめ牧場において、狭軌鉄道(610mm)の保存が行われている。
762mm軌間のものは石川県小松市に尾小屋鉄道の動態保存があるほか、森林鉄道など全国で数カ所の動態保存がある

2009年03月08日

欧州憲法条約では欧州連合

欧州憲法条約では欧州連合の旗、欧州連合の歌が定められるなど、ひとつの国家とするような規定が含まれていた。ところがEUの超国家主義的な性格を嫌う欧州懐疑論が燻るなかで、各加盟国内における欧州憲法条約の批准手続きが進められ、フランスとオランダでの批准の是非を問う国民投票で反対票が賛成票を上回るという結果が出された。加盟国内でヨーロッパ統合に対して反対する例はほかにもある。ノルウェーでは1973年と1995年の拡大にあたって、加盟条約に調印はしていたが、国民投票で条約批准がいずれも反対されている。デンマークの自治領であるグリーンランドは住民投票の結果、1985年にECを離脱している。またマーストリヒト条約の批准において、デンマークで1度国民投票で反対されているほか、イギリスにおいても議会で拒否されている。さらに従来の基本条約を修正するニース条約の批准においても、新たなEU基本条約の批准や既存の基本条約の修正にあたって国民投票の実施が憲法で義務付けられているアイルランドで1度反対されている。ユーロの導入にあたってもポンド危機の経験からイギリスでは消極的な意見が根強く、デンマークやスウェーデンでは国民投票で反対の意思が示されたことがある。

この事態はヨーロッパの統合を進めてきた指導者に動揺を与え、統合に対する「熟慮期間」が設けられることになった。ローマ条約調印50周年となる2007年、将来の新規加盟国の受け入れ態勢の整備とEU機構の効率化に特化した、「改革条約」と位置づける新基本条約の策定で合意がまとまり、同年12月にリスボン条約として調印された。合意された時点での名称は「改革条約」とされていた。この条約の合意をめぐって、2007年6月21-22日の予定で行われていたブリュッセル欧州理事会において協議されていたが、内政を干渉されかねないという懸念を持ったイギリスや、新条約の下でのEUの政策決定の手続きが大国有利であると批判するポーランドなどの一部の加盟国首脳が難色を示した。このため予定されていた日程を大幅に延長し、夜を徹して協議が続けられ、合意がまとまったのは6月23日の午前5時のことだった。

リスボン条約は2009年末までの発効を目指して各国の批准手続きが進められている。さらに将来の拡大についても、国土の一部がヨーロッパに属するトルコや旧ユーゴスラヴィア連邦構成国、ロシアと距離を置く旧ソヴィエト連邦構成国の加盟について議論が行われている。旧ユーゴスラヴィア連邦構成国の中では2004年5月にはスロヴェニアがすでに加盟しているほか、クロアチアとマケドニア共和国が加盟候補国として実務的な交渉を進めている。旧ソ連邦構成国では独立した際に、ソ連邦内での有力者がそれぞれの国の最高指導者に就いていた例が多い。それらの指導者が独裁ともいえる権力の長期支配を維持した末に、政権腐敗が進み国民の反発を招くようになった。この結果、2003年のグルジアのバラ革命、2004年のウクライナのオレンジ革命など、色の革命と呼ばれる政権交代が起こり、新たに成立した政権は親欧米路線を掲げている事例が多い。
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冷戦の終結以降、唯一の超大国となったアメリカが新自由主義を掲げて経済の拡大を図ってきたのに対して、ヨーロッパでは1990年代以降、社会民主主義のもとで第三の道が模索されるようになり、医療・保健、育児、介護、学校教育、職業訓練、失業時給付、生活保護、年金などの国民の生活に必要な福祉サービスを、全てまたは高い公費負担率で提供し、そのための財源として国民は所得の50% -70%を税金や社会保険料として負担する政策[1]を採用している。IMFの統計によると、2007年度は世界のGDPに対してEUは31.0%、ユーロ採用国は22.3%を占めるようになり[2][3]、ユーロは基軸通貨としてUSドルに並ぶ存在となりつつある。またEUは地球温暖化対策にも積極的に取り組み、2005年にはEU域内での排出権取引制度を開始し、温室効果ガスの排出量削減に向けて、ヨーロッパという連合体としての官民一体の体制作りを進めている。前記の諸政策のように、EUは世界において独自の統治モデル・政策を掲げ遂行する存在として、EU域内でもEU域外に対しても大きな影響力を持ち行使するようになった。

ラテンアメリカ諸国が対外累積債務問題でハイパーインフレーションに苦悩する中で、東アジア各国では、経済成長を遂げる国が現れてきた。雁行型経済発展理論と呼ばれる理論で注目され、経済発展面で先頭を行く日本を「アジア四小竜」・「アジアNIES」の韓国、シンガポール、台湾が追撃し、さらに、タイ、マレーシア、インドネシアが続いた。

韓国は、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展を遂げ、1988年のソウルオリンピック、1993年には大田国際博覧会を開催し、東アジア経済の中での存在感をアピールすることに成功した。韓国の経済発展には、朴正煕、全斗煥、盧泰愚といった軍人出身者の大統領が続いたものの、政治的には安定しており、盧泰愚の時代には、民主化が進展していった。また、世界を代表するサムスングループ、LGグループといった企業グループが登場した時代でもあった。

台湾もまた、オイルショックで産業転換を迫られ、エネルギー効率が高く、かつ、低汚染、高付加価値の産業への転換を行っていった。1979年に「十年経済建設計画」を策定し、機械、電子、電気、輸送機械を戦略工業にすえ、台湾セミコンダクター(TSMC)などの世界企業が登場した。1980年代から1990年代の台湾政治は、蒋経国、李登輝といった中国国民党の総統政権が続いていたため、政治的に安定していた。
シンガポールの場合には、経済成長に至るまでの過程が韓国とは異なり、半島部マレーシアという市場を1965年の独立で失い、国家存亡の危機に直面していた。リー・クアンユー首相は、給与の一部を強制的に貯蓄させ、その資金をもとに、国内企業の育成を進めるとともに、19世紀以来からの中継貿易をさらに進化させていった。また、ジュロン島などに工場を誘致することで、日本に次ぐ工業国へ発展させていった。

1949年に、中華人民共和国が成立するとイギリスの植民地のまま残っていた香港も、本土とは別の経済発展を遂げるようになった。上海などから戦前の中国経済を支えてきた資本家が流入し、欧米などから新しい製造設備を導入し、繊維産業やプラスチック加工業などの軽工業が発達していった。1984年に香港の返還が決定すると、中国本土では、鄧小平による改革開放路線の経済政策も相俟って、香港は華南経済圏の拠点となった。香港に隣接する深圳市は中国を代表する経済特区として急成長を遂げるようになった。


2009年02月19日

マン・マシーン

マン・マシーン(小説での表記はマンマシーン、Man Machine: MM)は、小説およびラジオドラマ作品『ガイア・ギア』に登場する、架空の兵器の分類の一つで、作中での人型をした有人機動兵器の総称。
チモール ジョリティ ジルバ マンボ サーチガム ロズウ いととく ペクトル オフロ スマトラ ネック ショルダ バンジョ キャリア ハマユ タッグ ユーコン JAPAN いちにいさん 天徳 バキュ バンパイア コンヒ ナビミット ツツジ コート おおだま マングース ビーバー ホルダー しょく コチュカル パラペ フレー ビエンナ フリー ライス 王の行進 マイクラ レジス サンセ ドラマ オール ビショ きたひろ ナンプレ クロス マモモ モノク リュート

一連のガンダムシリーズに登場したモビルスーツと基本的な構造に変更はないが、特徴としていずれの機体もサブフライトシステムなしに大気圏内の飛行が可能になっている点が挙げられる。これはそれまで艦船や一部の機体にしか使われなかったミノフスキー粒子を利用した飛行技術が、試作機には従来の小型で高出力のジェネレーターを大型にすることによって標準的に組み込まれており、量産機には障害となりがちなコスト高とメンテナンスの煩雑さを解決するため開発された、飛行用オプション装備が用意されているためである。

試作機はシステムを大部分共有できるミノフスキーバリアーを同時に装備していることが多い。フィン・ファンネルタイプの兵器を搭載した機体はIフィールドを形成することも可能であるが、その機能はミノフスキーバリアーにより補われている。一部の高級機は飛行形態への変形機構を持ち、単独での大気圏突入もこなす。

あらゆる技術を限界まで追求し機体に搭載することにより、『機動戦士Vガンダム』で主流を占めていた15?16m級から、20?24m級までに大型化している。これは量産機が量産化にあたり、オプション装備にサイズを合わせる必要があったことも一因である。しかし、より大型で威力の高い兵器を搭載することができるほか、ペイロードの拡充にともない武装の選択の幅も広がるため、特に問題とはされなかったようだ。

モビルスーツと同じく核融合炉を搭載している機体が多いが、後に登場したガイヤスは二次反応炉を、ギッズ・ギースはψ-サイクル核融合による新型のジェネレーターを採用している。

武装
ビームサーベル、ビームライフルなど、基本的な武装には平均的な破壊力以外にはさして変化はない。量産機に搭載されているビームライフルが、かつてのハイメガランチャー並の威力を持っているものと考えれば概ね正しい。以下特徴的な武器について解説する。

ファンネル
機器が高価であること、システムが複雑であることに加え、フォーミュラ計画に伴う機体の小型化により、UC110年代以降であっても、搭載される機体はごく一部の機体に限定されていた。しかし、非常に高度な防御システムが一般的になるにつれ、相手がバリアを張っていたとしてもその効果領域の内側に侵入して敵機を直接攻撃できる(極端な話、この時代のファンネルの主な使用方法は零距離射撃である)利点により存在が重要視され、試作機には必須のものとなった。さらに改良により本体の小型化が進んだことにより、地上および空中戦用のミサイルタイプと、宇宙戦用のビームまたはメガ粒子砲タイプを両方ないし複数搭載している機体もある。なお、物語の舞台であるU.C.200年代では、サイコミュ技術の圧倒的な進歩によりいわゆるニュータイプ能力を持っていないパイロットにもファンネルの使用が可能になっている。特に原作小説に登場するマン・マシーンにはサイコミュ機構が当たり前のように搭載されている。
サンド・バレル
対マン・マシーン用散弾。相手を牽制する目的で使われるほか、実体弾はもとよりタイミングを合わせればビーム攻撃も迎撃可能である。特別な発射装置がいらず、使い勝手が良いため標準装備となっているようだ。小説版での記述では小型ミサイルをばら撒くものとされていたが、解説では砂状の重金属粒子を詰めた弾丸とされており、判然としない。『機動戦士Vガンダム』の小説版にも登場しており、そちらでは弾幕を張る時に使われる多弾頭ミサイルのような記述となっている。
エレクトロ・ケミカルガン
ゾーリン・ソールの持つPak43A エレクトロ・ケミカルガンは電熱化学砲の一種で、液体炸薬に電圧を加えプラズマ化させ、その膨張圧と炸薬自体の爆発により装甲貫徹力の高いMS-HEAT(多段成型炸薬弾)を超高初速で発射する兵器である。しばしばレールガンと混同されるが、実際は異なる分類に属する。

ニュータイプ専用機
基本システムであるサイコミュに、従来のバイオセンサー、サイコフレーム、バイオコンピューターに代表される既存の技術をさらに改良させることにより生み出された、新しいユーザインタフェースを用いることにより、操縦の追従性が飛躍的に向上している。これに標準装備のファンネルが加わり、極めて高い戦闘力を誇る。作中ではゾーリン・ソール、ガイア・ギアαにアフランシが搭乗し、圧倒的な性能差を見せつけている。

しかし、この時代においても慢性的にニュータイプのパイロットは不足しており、通常はオールドタイプ(ニュータイプ以外の人類)により運用されている。オールドタイプのサイコミュに対する扱いはサウンドシアター版、小説版ではっきりと異なっている。

《サウンドシアター版》オールドタイプが運用する際には、サイコミュは切られているか封印されており、余剰パーツとなるファンネルは取り外される場合もある。サイコミュ自体は技術の進歩によりオールドタイプであっても使用できるように改良されており、出撃後に手動で稼動させることも可能である。が、その対価としての精神や肉体、特に脳へのダメージは深刻であり、パイロットにとって諸刃の剣であった。

《小説版》技術の革新により、オールドタイプでも支障なく運用可能になっている。劇中でもパイロットにダメージがあるのでは?との危惧に対し、「そういうのは過去の話」との回答がある。 ウル・ウリアンやジャン・ウェン・フー率いるギッズ・ギース隊も通常通り運用し、ファンネル(ミサイル)も使用している。ギッズ・ギース隊とアフランシの駆るガイア・ギアαとの交戦において、ジャン・ウェン・フーは味方の気配が消滅した事で、撃墜された事を感じ取っていた為、サイコミュ起動中はオールドタイプであっても、ニュータイプ的な感覚を持つ事が出来るようである。 しかし上記の戦闘の際、アフランシがファンネルで瞬時に数機のギッズ・ギースを撃墜し、ジャン・フェン・フーを驚愕させている事から、ニュータイプとオールドタイプではサイコミュを扱う能力に、未だ歴然とした差があるようである。

デザイン
デザインを手がけたのは、いずれも伊東守である。彼のコメントによれば、元は小説の挿絵なので、アニメでは動かせないような形にしたとのことである。実際量産機を除いてはいずれも突起物が多く、複雑な機体となっている。なお、小説1巻の改修前ゾーリン・ソールのデザインを手がけたのは佐山善則。

機体一覧
メタトロン
ガイア・ギアα
ガイア・ギアα試験機(本編未登場)
ガイア・ギア雷電(イラストのみ)
ゾーリン・ソール
ドハディ
ドハディDh-3b
ガイヤス
地球連邦軍(マハ)
ブロン・テクスター(ウル・ウリアン搭乗機、レイラ・セイバー搭乗機)
ブロン・テクスター量産型
ブロン・テクスター改良型
ガウッサ
ガウッサ UM-190B.I
ガウッサ UM-190B.I(月軌道艦隊所属機・本編未登場)
ガウッサ UM-190B.II
ギッズ・ギース

補足
ミノフスキードライブという言葉はこの作品が初出だが、これ自体は原作者の富野由悠季がオプションのミノフスキー・ドライブ・ユニットを、ミノフスキークラフトのユニットを装着しドライブ=機動させるものと考えてつけた名前である。その語感を気に入ったカトキハジメが、後にアニメ『機動戦士Vガンダム』や漫画『機動戦士クロスボーン・ガンダム』で登場させたが、推進システムは同一のものではないようである。

また、ブロン・テクスターなどに搭載されたミノフスキードライブも、ミノフスキークラフトが作中に同時に登場しているため区別されている可能性がある一方、前述の理由により一般的なミノフスキードライブとは別物とも考えられる。

2009年02月03日

織田氏(おだし)は、日本の氏族。武家・華族の家柄。

織田氏(おだし)は、日本の氏族。武家・華族の家柄。
約束の橋 チーム 赤ずきん リコニー エジンバラ さくもん コモドド モスリン べにえび エンジン オーリ センデ ジーピー シーアイ マンサク ジュエリー トニック チューナー マンデート シャン だいろ 一千一秒 大人の生活 スキーム エイハラ スラロー ロータリー ティズム シンボル オヤマ ファシリ センタ テラコッタ センシ ツール モチーフ ギョリュ モジュ 中仙道 ひわき ジャッカル ケミストリー ローズウッド トークン 一字千金 地上の星 キャップ リーフ マナスル オーソラ

発祥地(苗字の地名)は越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)。本姓は藤原氏(のちに桓武平氏の系統と仮冒)。実際は忌部氏の流れを汲むとされる。越前の甲斐氏、朝倉氏と同じく、三管領の斯波武衛家の守護代であり、序列は甲斐氏に次いで二位であった。室町時代は三管領の斯波武衛家の分国尾張で尾張守護代を務める。戦国時代には一族同士の争いの結果、一族(弾正忠家)の織田信長が勢力を大きく広げた。しかし、天下統一を目前に本能寺の変で信長が討たれると内部分裂、有力家臣羽柴秀吉の台頭などで家勢は衰えた。関ヶ原の合戦後に嫡流は零落しまもなく断絶、庶流は江戸時代には外様大名や高家、旗本、尾張藩、明石藩家老などとして存続した。なかには藤掛氏、津田氏のように織田を称しない一族もいる。

明治維新後、大名の織田家四家が子爵に列した。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は「信」。

織田氏は系図の上では平資盛の子と称する平親真を祖とする桓武平氏流と自称しているが、これは仮冒であり、越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)の織田剣神社の神官の出自であるとされている。学説としては、親真自身が忌部氏の出目とする説もある。もともと、織田(越前ではオタと読む)姓は地名を指す。織田という地名は、古代その地に越前国敦賀郡伊部郷(いべのごう)という郷があり、そこへ高麗から織女が漂着し、そのことを縁起して織田(オリタ→オタ)と改めたといわれる。尾張織田家も故郷の地名を自らの姓としたことが始まりとされる。

なお、『寛永諸家系図伝』(仮名本)において「織田」に振られた振り仮名は1箇所を除いて全て「オタ」である。このため、戦国時代を通じてこの頃(江戸時代初期)までは「おた」が正しい呼び方だったのではと言う説もある。

また、織田剣神社にある『藤原信昌・兵庫助弘置文』の古文書によると、明徳4年(1393年)の6月17日に剣神社宝前に奉納し、置文を記した鎮守府将軍藤原利仁(あるいは利仁の岳父で、敦賀の豪族藤原有仁(忌部氏?))の系統と思われる藤原信昌、藤原兵庫助将広(将常とも)父子が越前織田家の先祖に関連がある人物と伝わる。事実、信長は「藤原信長」と称しているが、その根拠はここから来ているという。実際に信長は、天文18年(1549年)11月に熱田八ヶ村の熱田神宮で、自ら「藤原信長」と認(したた)めている(『加藤文書』より)。また、天文23年(1554年)6月11日、熱田神宮に菅原道真画像(熱田神宮所蔵)を寄進。その絵巻に「藤原織田勘十郎」と記してある。

室町戦国?安土桃山時代
下剋上
室町時代に入り、幕府の管領家で越前や尾張の守護を務める大名斯波氏の被官になり、一部の者が尾張へ移住した。尾張守護代となった織田氏は、戦国の混乱期において弱体化した守護斯波氏に代わり徐々に頭角を現し、戦国大名として名乗りを上げた。岩倉織田氏と清洲織田氏に分裂して抗争する。

岩倉織田氏(伊勢守家)
織田郷広
織田敏広
織田寛広
織田広高
織田信安
織田信賢
清洲織田氏(大和守家)
織田常竹
織田久長
織田敏定
織田寛定
織田寛村
織田達定
織田達勝
織田信友

織田信長の出現
清洲織田氏の三家老の一人であった弾正忠家の織田信定とその子の織田信秀はその才智と経済力を背景に主家を凌ぐ力をつけ、信秀の代には活発に軍事行動を展開し尾張統一を進めるとともに、美濃の斎藤氏や三河の松平氏、駿河の今川氏と抗争し、武威を示した。

その子織田信長は、父の没後に起こった織田家の内紛を鎮める一方で、尾張守護の斯波氏をも追放し尾張統一を短期間でなしとげた。さらに尾張へ進出してきた駿河守護の今川氏を桶狭間の戦いで破り、隣国三河の徳川氏と同盟を結ぶことによって勢力を伸ばし、美濃、伊勢へ勢力を広げ、ついには上洛し足利将軍家の後継争いに介入するようになる。足利義昭を盟主に奉じたものの、のち追放。事実上室町幕府を滅ぼした。その前後で越前の朝倉氏や甲斐武田氏を破りその後滅亡させるなど反抗する大名を武力で屈服させて天下統一事業を推進していた。しかし、本能寺の変で信長は明智光秀の謀反によって討たれた。この際、信長の嫡男で織田氏の当主であった織田信忠も二条城で討たれたため、政権の中核となるべき人物を失った織田政権は崩壊する。

信長の遺児達の運命
本能寺の変後の清洲会議において、信忠の遺子である三法師(織田秀信)が織田家の後継者として担ぎ出され、織田家及び天下の実権はその後見役におさまった豊臣秀吉に移行する。秀吉に対抗した信長の三男信孝は敗北を喫し、自刃に追いやられている。その後、秀信は豊臣政権下では美濃国岐阜城主となった。関ヶ原の戦いにおいて秀信は西軍方に属したため改易された。

信長の次男信雄は豊臣政権下で織田氏ゆかりの清洲城主として100万石を領し、内大臣にまで昇るものの、小田原の役後の国替えを拒み、改易された。その後、ゆるされて秀吉に仕えた。また、信長の六男信秀、七男信高、八男信吉といった多くの息子たちは秀吉の家臣となった。しかし関ヶ原の合戦で多くの息子たちは西軍に属し、没落した。

信長の弟信包は豊臣政権下で伊勢国津城主として、ある程度優遇されたものの、秀吉の不興を被り、改易された。その後、ゆるされて秀吉に再び仕えた。同じく信長の弟長益は茶道をもって秀吉に仕えた。

江戸時代以降
信忠(信長嫡男)の末裔
織田信長の嫡男・信忠は、父の信長と共に本能寺の変で討たれた。その子・秀信(三法師)は清洲会議の決定により、織田弾正忠家を継いだ。しかし、実権は豊臣秀吉に奪われ、美濃国岐阜13万3千石の一大名に転落する。関ヶ原の戦いで西軍に属して戦ったため、改易されて高野山へ送られた。そして、秀信の死をもって信長の嫡流の断絶ということになっている。

ただし、『江源武鑑』によれば、秀信に娘がいたとしており、その娘と六角義郷の間に氏郷が生まれたという。また、嫡流男系が郷士西山氏や織田(おりた)氏として土着したという記録もあり、これが事実であるとすると嫡流男系は正式な武士としての身分は失ったものの、士分の階層には留まり存続したことになる。以上の記述が正しいとするならば、信長の嫡流男系と嫡流女系は存続していることになる。しかし、六角氏郷には子女がいなかったため、嫡流女系は断絶している。なお、『寛政重修諸家譜』など、公的な系譜は秀信に子女はいなかったとしている。

信雄(信長次男)の末裔
本能寺の変以降、織田信長の血筋を引き継いで明治まで続いた系統は、主として次男信雄・七男信高・九男信貞の子孫である。信雄は小牧・長久手の戦いで徳川家康と組んで秀吉と戦うものの講和、服属するにいたった。小田原合戦の後に国替えをめぐって秀吉と対立し、改易となった。ほどなくゆるされて、御伽衆として秀吉・秀頼父子に仕えた。豊臣家の滅亡後、徳川幕府に独立した大名として認められた。

織田信雄の子孫は、四男信良の系統が上野小幡藩、後に出羽高畠藩・天童藩の2万石の大名となった。また、五男高長の系統が大和宇陀松山藩、後に丹波柏原藩の2万石の大名となった。両家ともに信長の末裔ということで、小藩でありながら江戸時代中期の宇陀崩れや明和事件に巻き込まれるまでは幕府から国主並の優遇を受けた。近代に入り、両家ともに華族となり、子爵を与えられた。

宇陀松山藩主織田高長の三男長政は3000石を分け与えられて分家し、交代寄合となり、その子孫は高家旗本になった。明治期から昭和期にかけて活躍した芸術家の織田一磨は直系の子孫である。さらに、長政の次男信清は300石を分け与えられて分家し、旗本になった。

その他、天童藩・柏原藩両織田家ともに庶子に津田姓などを与え、家臣として分家させた。具体的には、宇陀松山藩主織田高長の五男津田頼房の系統や高畠藩主織田信浮の十男津田長郷の系統などをあげられる。

その他の信長の子の末裔
織田信長の七男・信高の系統は、徳川幕府の旗本となり、後に高家旗本になった。近江国内で2000石余りを領有した。フィギュアスケート選手の織田信成(信長より17代目)は、信高の直系の子孫という。ただし7代織田信直が養子相続のため血筋の上では信長の次男・信雄の五男・高長の子孫となる。(順に信雄、高長、長政、長喬、信義、信直で信長から数えた代は変わらない)

織田信長の九男・信貞の系統も、徳川幕府に旗本として仕え、後に高家旗本になった。近江国内で1000石余りを領有した。後に分知により700石余りに減った。また、2代織田貞置の三男貞則、四男貞輝は分家し、それぞれ旗本になった。静岡藩主徳川家達に仕えた織田泉之は貞輝の子孫である。

織田貞置の孫津田長経は、高家織田家の嫡子であったものの、病気のために嫡子の地位をしりぞき、近江国神崎郡河合寺村に閉居した。その子孫である織田瑟々(津田貞秀の長女政江)は江戸時代後期の画家として知られる。

織田信貞の長男信次は、病気のため家督を相続できず、信次の長男貞幹は、尾張藩主徳川光友に召し抱えられて、家老にまで抜擢された。また、貞幹の次男長居は分家し、尾張藩士になった。

信長の弟の末裔
織田信勝系
織田信長の弟信行(信勝)の子孫は、2家が旗本になっている。信行の孫昌澄は藤堂高虎や豊臣秀頼に仕え、豊臣家の滅亡後は近江国内に2000石を与えられて、旗本に取り立てられた。その子信高は三男信英に500石を分け与え、旗本として分家させた。
織田信包系
織田信長の弟・織田信包は、関ヶ原の戦いで西軍に属したものの、大名として存続を許された。丹波柏原藩主であったものの、孫信勝のときに無嗣断絶した。ただし、改易に際して信包の四男信当は幕府から3000石を与えられて、旗本として召し抱えられた。
なお、信包の長男信重は伊勢林藩1万石を領有する大名であったものの、父の死後に弟信則と遺領の相続争いをおこして、改易となった。その子孫は肥後熊本藩細川家の家臣になった。
織田長益系(有楽流)
織田信長の弟で有楽斎こと織田長益は、関ヶ原の合戦で東軍に属し、加増されて摂津味舌3万石の大名となった(味舌藩)。ただし、戦後は大坂城にあって豊臣秀頼の補佐にあたった。豊臣家の滅亡後、長益は隠居し、四男長政と五男尚長に各1万石を分け与えた。長政の子孫は大和戒重藩・芝村藩の藩主、尚長の子孫は大和柳本藩の藩主となった。織田信雄の系統の大名のような特別な待遇は受けられなかった。近代に入り、両家ともに華族となり、子爵を与えられた。なお、それぞれ藩主の庶子は渡会や溝口などといった別姓を称し、家臣になった。
なお、関ヶ原の合戦後、織田長益の長男長孝は美濃野村藩1万石の大名に取り立てられたものの、その子長則のときに無嗣改易となった。ただし、長則の弟長政の子孫は、加賀藩前田家の家臣になった。

系譜
凡例
実線は実子、点線は養子、太字は当主、□は名不詳(明治以降の人物についてはプライバシー上匿名にしている場合もある。)
※著名な事蹟がない人物、傍系の人物については掲載されていないこともある。

(注1)天童藩系の現当主は信恒の孫の某氏、丹波柏原藩系の現当主はフリーライターの織田孝一(本名は信孝)
(注2)天童藩系の信恒の血筋上の先祖は藤原北家勧修寺流(信恒は相馬氏からの養子で、相馬氏には江戸時代に佐竹氏より養子が入っており、その佐竹氏には室町時代に上杉氏より養子が入っているため)。
(注3)丹波柏原藩系の信大の血筋上の先祖は旗本平野氏である(織田信親の実父の山崎治正は平野氏よりの養子)。)

織田長益系統
長益
     ┣━━┳━━┳━━┳━━━━━━━━┓
     長孝 頼長 俊長 長政       尚長
     ┃  ┃  ┃  ┃        ┃
     長則 長好 長次 長定       長種
           ┃  ┃        ┃
           則長 長明       秀一
              ┃        ┣━━┓
              長清       秀親 成純
              ┣━━┓     ┝━━┓
              長弘 長亮    成純 秀行
              |        |
              長亮       秀行
              ┣━━┓     |
              輔宜 長教    信方
              |        ┣━━┓
              長教       秀賢 長恒
              ┃        |
              長宇       長恒
              ┃        ┃
              長恭       秀綿
              |        ┃
              長易       信陽
              ┣━━┳━━┓  ┣━━┓
              長猷 長純 長義 信成 信及
                    ┃     ┃
                    長繁    秀実
                          ┣━━┓
                          信一 長利

楽田城の織田氏
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織田信次系統
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織田勝長系統
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高家織田家
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織田家(弾正忠家)一族
織田良信
織田信定
織田信秀
織田信光
織田信次
織田信広
織田信長
織田信正
織田信忠
織田秀信
織田秀則
織田信雄
織田信孝
羽柴秀勝
織田勝長
織田信成

家臣
主要家臣
柴田氏
丹羽氏
羽柴氏
明智氏
佐久間氏
林氏
平手氏
前田氏
佐々氏
滝川氏

信長の家臣団
尾張時代

平手政秀
林秀貞
内藤勝介
佐久間信盛
佐久間盛重
村井貞勝
長谷川秀一
丹羽長秀
柴田勝家
河尻秀隆
坂井政尚
原田直政
森可成
滝川一益
水野信元
羽柴秀吉
堀秀政
佐々成政
前田利家
佐久間盛政
山内一豊
梁田政綱
蜂須賀正勝
太田牛一
飯尾定宗
池田恒興
魚住隼人正
勢力拡大期

明智光秀
氏家卜全
安藤守就
稲葉一鉄
不破光治
竹中重治
蒲生氏郷
磯野員昌
荒木村重
高山右近
細川藤孝
松永久秀
九鬼嘉隆
黒田孝高
森蘭丸
阿閉貞征
池田元助
武藤舜秀

支配城

居城
(?信長まで)

勝幡城
那古野城
古渡城
清洲城
小牧山城
岐阜城
安土城
(信長から?)各大名 信包       

本能寺の変前

津城
本能寺の変後

上野城   
信雄

本能寺の変前

田丸城
松ヶ島城
本能寺の変後

清洲城
長島城
信孝

本能寺の変前

神戸城
本能寺の変後

岐阜城
秀信

本能寺の変前

岐阜城
本能寺の変後

清洲城
岐阜城
安土城
坂本城
岐阜城
長益

本能寺の変前

不明
本能寺の変後

犬山城
大草城

2009年01月20日

体操(たいそう)(Gymnastics)

体操(たいそう)(Gymnastics)とは、運動の一種で、飛んだり跳ねたりするなど、ある程度の激しい動きとリズムを伴って、いろいろなポーズに身体を動かすものをいう。

大きく、一般向けの健康維持や肉体をほぐすための準備運動の目的、学校における体育授業の一環として行うものと、体を動かす姿の美しさを競う競技としての体操の二つに分かれる。

前者としてはラジオ体操が代表的で、後者としてはゆか、あん馬などの体操競技や新体操などがある。

似たようなものとしてはエアロビクスやトランポリン、場合によってはチアリーディングも挙げられよう。

フィットネスやウエルネスのような用語は、かなり広くものごとをとらえたニュアンスがある言い方である。ウエルネスは、生活科学として、運動を適宜日常生活に取り入れながら、健康的に日々の暮らしを送ろうと言う主旨で提唱された概念である。

体操は、常に新しい要素を生みながら変化しつづけている運動の一分野である。したがって、ある特定の運動をもって「これが体操である」と言い切ることは出来ない。日本の体操の統括団体である財団法人日本体操協会(Japan Gymnastic Association:略称JGA)・一般体操委員会は日本体操祭を主催しているが、その出場団体の選考条件には

一般体操の演技内容が、総合性、律動性、独創性、あるいはテーマや指導的な内容をもち、 社会的に評価される団体であること。
特に、一般体操の独創的な工夫がみられる演技内容が少しでも認められる団体であること。
体操競技、新体操、スポーツアクロ体操、エアロビクスなどの競技形式をとらない演技内容であること。
日本体操協会の一般体操の考え方である「一般体操は、あらゆる年代に適し、健康を促進するための身体的、精神的、社会的、また、文化的な側面に貢献し、自主的に楽しく動く体操である。」の趣旨に相応しい活動をしている団体であること。
とあり、技術的な制約は全くない。技術的な制約がない運動を分野として取り込んでいることが、体操の大きな特徴であり、ユニークな点でもある。

日本体操協会と、その国際的な統括団体である国際体操連盟(Fédération Internationale de Gymnastique:略称FIG)は体操を以下の6つの分野に分け運営を行っている。

一般体操(General Gymnastics:GG)競技をしないすべての体操を指す。
体操競技(Artistic Gymnastics:男子はMen's Artistic Gymnastics(MAG)、女子はWomen's Artistic Gymnastics (WAG)と分けられている)
新体操(Rhythmic Gymnastics:RG)
トランポリン(Trampolining:TRA)
スポーツアクロ体操(Sports Acrobatics:ACRO)
スポーツエアロビクス(Sports Aerobics:AER)
一般体操以外は全て順位を決める競技性のあるスポーツである。

体操の系譜
体操には体系的に3つの種類があり、それぞれ異なる起源を持つ。

徒手体操:自分の体だけを使って行う体操。(ラジオ体操など)
手具体操:自分の体と道具を同時に操る運動。(新体操など)
器械体操:規定された器具の中で、より高度な運動を目指す競技としての体操。(体操競技など)
また発祥によってそれぞれ異なる名称で呼ばれる。ドイツ体操、スウェーデン体操、デンマーク体操は「世界三大体操」と呼ばれ、創始時には独自の特徴を持っていたが、その後それぞれの体操の長所などを取り込む改良が行われ、今日では昔ほどの差異はなくなりつつある。

ドイツ体操
イルカ カッション イナリー ヒンズー ケミカル ヤブラン おりあお パララ アリーナ テリア キンバ マキャベ フードル ハイファイ マイル けんち バルジ ビリティ ビスケ ボール オセロッ ロス ストップ マリン ローエン ランタナ ギブアウ キドニー コーヒー ヒヤシ ファクタ ジュレハ ショベルカ ライフ リック ドレス シーエム ガヤツリ レーン ケション ナラタ プレイ デパオク グロテ ハジャイ トリック シロシ ドット リナッ フィア

ドイツ体操はバゼドー、フィヒテらの思想を継いだフリードリッヒ・ルートヴィヒ・ヤーンによって1811年に創始された。特に器械体操が有名で、今日の器械体操競技種目の大部分がヤーンの創案によるものである。スウェーデン体操の研究家ロートシュタインにより、青少年の体育手段として有害であるなどの批判を受け、激しい論争が行われた(平行棒論争)が、医者などの支持を得て、今日に至っている。

スウェーデン体操
スウェーデン体操は、国民の体力養成を念願し、解剖学、生理学、物理学的見地から合理的な体力養成運動を目指し、ペール・ヘンリック・リングによって創始された徒手体操である。スウェーデンではリングの没後100年を記念し、リンギアードと呼ばれる体操を中心とする大会が1939年に開かれた。

デンマーク体操
デンマーク体操は身体の柔軟度促進を目的とした体操で、リングの師でもあったフランツ・ナハテガルによってドイツ体操を元に1780年に創始され、ニルス・ブックによって広められた。

ソコール体操
ソコール体操はチェコがドイツに対抗し、民族の団結と国民の体力増進を目的として開発したもので、「人間の集団美」を追及した体操である。チェコでは6年に1回、ソコール体操の大会が行われる。

ヨガ体操
ヨガ体操はインドのヨーガ経典に示された医療体操を仏道修行の過程として行われたものである。詳細はヨガの項を参照されたし。

日本の体操
日本では1868年に軍隊に初めてドイツ体操が採用された。また、一般の学校には1878年にアメリカの体操教師リーランドによって欧州の体操がもたらされ、1913年には永井道明を中心に研究されたスウェーデン体操が学校体操教授要目として発布され、1941年の国民学校発足までの約30年間に渡って、日本の体育界を支配した。しかし、国民学校発足と同時に体操は一流一派に偏ることなく体操の学理に基づき、良いものを自由に取り入れる方針が立てられ、各種の体操の長所が取り入れられるようになった。

また、ラジオ体操は1928年にNHKのラジオ放送によって国民保健体操を全国に普及指導したのが始まりで、第二次世界大戦後は一時廃止されたが、1951年に新ラジオ体操が復活し、今日に至っている。